「すいじょう」から「みなかみ」へ、鉄道からクラフトコーラへ

先日、群馬県みなかみ町で作られている「みなかみ源流コーラ」について、前後編にわたってご紹介しました。クラフトコーラを通じて「水上」という土地を見つめてきましたが、クラフトコーラとは何の関係もなかったずっと昔から、私はこの場所を知っていました。

「水上」を「すいじょう」と読んでいた頃

私が初めて「水上」という単語を知ったのは小学生の時。従兄弟から、とある鉄道のビデオをもらいました。従兄弟自身は特に鉄道好きというわけではなく、従兄弟の大学の鉄道研究会にいた知人か誰かから譲ってもらったものだったと記憶しています。

国鉄EF55形電気機関車 1号機
国鉄EF55形電気機関車 1号機

映像の主役は、蒸気機関車の「D51」と、電気機関車の「EF55」。D51は鉄道に詳しくない人でも名前くらいは聞いたことがあるかもしれません。いわゆる「デゴイチ」と呼ばれる、日本を代表する蒸気機関車の一つです。一方のEF55は少し変わった電気機関車です。一般的な電気機関車がどちらの方向にも走りやすいよう前後が同じような形をしているのに対し、EF55は片側だけが大きく丸みを帯びた流線形をしています。細かい説明を抜きにすれば、とにかく「格好いい電気機関車」なのです。

D51もEF55も、一度は現役を退きながら復活し、高崎を拠点に上越線や信越本線などを走っていました。EF55は2009年に再び引退しましたが、D51は今も高崎地区で活躍しています。私がもらったビデオは、確かEF55を製造した日立製作所の非売品の周年記念映像のようなものだったと記憶しています。少なくとも市販の子ども向け鉄道ビデオではなく、企業向け、あるいは業界人向けの作りでした。

これが子どもの私には衝撃的でした。それまで親に買ってもらった鉄道ビデオの多くは当然ながら子ども向けで、ナレーションも説明も分かりやすく作られています。ところが、そのビデオには子どもへの手加減がありません。ナレーションの半分以上は何を言っているのか分からない。それでも、映像が圧倒的に格好いい。カメラワークも演出もナレーションも、それまで見てきた鉄道ビデオとはまったく違いました。理屈では分からなくても「これは格好いいビデオ」ということだけは子どもながらに理解でき、私はそのビデオを何度も何度も食い入るように見ていました。

特に印象に残ったのがEF55の上越線走行映像です。EF55が驀進する映像とともに、画面の下には「○○駅~○○駅間」と撮影場所が表示されます。そこで何度も目にしたのが、「水上」「渋川」「敷島」といった地名でした。もちろんルビなんて振ってありません。だから私は「水上」を長いこと「すいじょう」と呼んでいました。「敷島」に至っては読み方すら分からず、文字というより一つの記号として覚えていたような気がします笑。

そしていつしか、「この映像が撮られた場所へ行ってみたい」と思うようになりました。今なら「聖地巡礼」と呼ぶのでしょう。それが、私の初めての一人旅の動機でした。

小学生、初めての一人旅

小学5年生になる頃には、「行ってみたい」という想いがますます強くなっていました。私は東京の赤羽に住んでいたので、高崎線で高崎へ向かい、上越線に乗り換えれば渋川や敷島、水上まで行くことができます。子どもにとっては十分な大旅行ですが、お小遣いやお年玉を集めれば手が届かない金額ではありません。もっとも、11歳くらいというのは妙に大人ぶりたい年頃だったため、子ども料金ではなく、大人料金で切符を買って行ったような記憶もあります笑。

115系(新潟駅だけど・・・)

赤羽から高崎までの記憶は、ほとんど残っていません。今でも鮮明に覚えているのは、上越線に乗り換えてからです。当時走っていた列車(115系)は、駅に着いたら乗客自身が手で扉を開ける必要がありました。知らない土地で、初めて乗る列車の重たい乗車扉を自分で開けて降りる。今思えば、あれが私の中に残っている最も古い「生の鉄道の実感」なのかもしれません。

最初に降りたのは敷島駅でした。なぜ敷島だったのかは、自分でもよく覚えていません。そもそも上越線の駅名を全部知っていたわけでもありませんし、スマートフォンもGoogleマップもない時代です。ビデオで覚えた断片的な地名と、車窓の景色だけが頼りでした。たぶん列車から利根川が見え、「ここは景色が良さそうだ」と思って降りたのでしょう。

ところが、降りてみて初めて気付きます。ビデオに映っていた「渋川~敷島間」というのは、当然ながら駅前のことではありません。駅と駅の間には何キロもあります。撮影場所がどこなのかも分からない。地図もない。インターネットで簡単に写真を探せる時代でもない。小学生一人、敷島駅でいきなり途方に暮れました。

しょうがないので、とりあえず川へ行くことにしました。列車から見えていたので、方向くらいは分かります。歩いて利根川の近くまで行き、その景色を見た時のことは今でも覚えています。「すげえ、自然だ」と思いました。東京で育った小学生には、それだけで十分だったのでしょう。そして今となっては我ながら恐ろしいのですが、私は川の水を手ですくって飲みました。

利根川の中流域です。どう考えても、積極的にそのまま飲むことを勧められる水質ではありません。それでも当時の私には、目の前の川がものすごく澄んだ大自然に見えて、「これは飲める水だ」と直感したのでしょう。幸い、お腹を壊した記憶はありませんが、もちろん今なら絶対にやりません笑。

結局、目的だったビデオの撮影場所は見つかりませんでした。その代わり、川の近くにあった温泉施設に入りました。知らない町へ一人でやって来て、一人で温泉に入る。それも私にとっては初めての経験でした。もともと温泉は好きでしたが、家族に連れて行ってもらうのとはまったく違います。「自分一人でここまで来て、こんなことまでできるようになったんだ」と、少し嬉しくなったことを覚えています。

そして「すいじょう」へ

水上駅にて

敷島から再び上越線に乗り、さらに北へ向かいました。目指すは、ビデオで何度も見た「水上」。当時の私にとっては、まだ「みなかみ」ではなく「すいじょう」です。水上駅なら終点なので、駅名を読み間違えていても乗り過ごす心配はありません。

ビデオには、水上駅からD51が発車する場面もありました。「あの映像はたぶん駅のこっち側から撮ったんだろう」。そんな程度の記憶を頼りに歩き回りました。水上温泉にも入ってみたかったのですが、こちらも場所がよく分かりません。今ならスマートフォンを取り出せば終わる話ですが、当時は自宅のパソコンや学校のコンピュータールームで見た情報を頭に入れて、その記憶だけで現地へ行くような時代でした。

結局、ビデオに出てきた場所を巡るという当初の目的は、ほとんど達成できませんでしたが、それでも不思議と失敗したという記憶はありません。よく分からないまま列車を降り、川を見つけ、温泉に入り、また列車に乗った。その一つ一つが、とても楽しかった。私が旅行好きになった原体験です。

赤羽から一本で行けた「特急水上」

土合駅(ホーム改良工事前)

その後も、水上には何度か出かけました。中学生になってからは、「特急水上」という列車を使うようになります。高崎で乗り換えず、快適に赤羽から水上まで一本で行けるこの特急列車は、とてもありがたい存在でした。

しかし、その特急水上も2010年に定期列車として姿を消しました。現在でも臨時列車が運転されることはありますが、昔のようにふらっと「赤羽から特急に乗って、そのまま水上へ」という旅はしづらくなっています。水上駅からさらに新潟方面へ向かう普通列車も、本数は決して多くありません。かつて国境越えの鉄道交通を支えた水上という町と、鉄道との関係も時代とともに大きく変わってきました。

先日の取材では、みなかみクラフトの方々に自動車で町内を案内していただく機会がありました。私は筋金入りの鉄道好きですが、車で走ってみると「自動車って、ものすごく便利だな」と、当たり前のことをあらためて実感します。みなかみ町は広く、鉄道駅から離れた場所にも面白いもの、美しい景色、訪ねてみたい場所がたくさんあります。列車だけで移動しようとすれば、どうしても時刻表を基準に一日を組み立てなければなりませんが、車なら気になった場所で止まり、そのまま次の場所へ向かうことができます。

鉄道を愛する側の人間としては少し寂しくもありますが、こうして実際に町を巡ると、人々の移動が自動車中心になっていった理由も分かるような気がしました。途中、道の駅みなかみでは、上越線の急勾配区間で活躍したEF16の保存車にも出会いました。鉄道の要衝として栄えた時代の痕跡は今も町のあちこちに残っていますが、その町もまた、少しずつ姿を変えています。それは決して水上だけの話ではないのでしょう。

憧れだったEF55と、その先にあるもの

ありがとうEF55“碓氷”号

子どもの頃、ビデオの中で憧れていたEF55には、その後実際に乗ることができました。2009年、EF55が引退する際にさよなら運転が行われ、当時の私は18歳でした。小学生の頃、テレビ画面の向こう側を走っていた機関車が目の前に現れ、しかも、その機関車が牽く列車に自分が乗っている。あの時のことは、今でも本当に良い思い出です。最後に乗ることができて良かったと思っていますし、EF55は今でも私が最も好きな鉄道車両の一つです。

同じ場所でも、見えるものは変わっていく

時代は流れ、私自身も35歳になりました。小学生だった私は、EF55の走った景色を見たくて水上へやって来ました。その頃の私にとって、水上はEF55やD51が走る「鉄道の町」でした。やがて一人旅にも慣れ、全国の鉄道に乗り、いろいろな場所を訪れるようになりました。さらに大人になって、なぜかコーラを追いかけるようになりました。そして今度は、「みなかみ源流コーラ」という一本のコーラをきっかけに、再びこの町を訪れることになりました。

子どもの頃に見えた水上と、35歳になった今の私に見えるみなかみは、まったく違います。昔は線路しか見ていませんでした。EF55がどこで撮影されたか、D51がどこを走ったのか。どの駅で降りればビデオの景色を見ることができるのか。それだけで十分でした。

ところが今は、そこで暮らす人々を知り、その人たちが地域の恵みを使って何かを作ろうとしていることを知っています。昔の私は、利根川の水を手ですくって飲んでいました。今の私は、その水がどこからやってきて、町の産業や食べ物、そこで暮らす人々とどう繋がっているのかを考えています。同じ場所なのに、見えるものが全然違います。それが歳を取るということなのかもしれませんし、その変化を今は十分に噛みしめています。

鉄道を目的に訪れた場所へ、二十数年後にはコーラを取材するためにやって来た。子どもの頃の私に「お前は将来、コーラの取材のために水上へ行くぞ」と言っても、絶対に意味が分からないでしょう。

一本のビデオから始まった水上との縁が、今は一本のクラフトコーラへと繋がっている。そして源流コーラ自身も、まだ変化の途中にあります。私もまだ35歳です。これから10年、20年と経った時、自分がどんな理由でこの町を訪れるようになっているのかは分かりません。鉄道かもしれない。コーラかもしれない。あるいは、今はまだ想像もしていない何かかもしれません。それも含めて、少し楽しみにしています。

かつて「すいじょう」と呼んでいた町は、私にとって「みなかみ」になりました。それでも列車で水上駅に着けば、きっと今でも、小学生の頃に一人で降り立った時のことを少し思い出すと思います。

場所というものは不思議です。変わっていく町の中に、変わらない自分の記憶が残っている。そして時々、まったく新しいものが、その古い記憶の続きを作ってくれる。私にとって「みなかみ源流コーラ」という存在は、そんな記憶を一筋の線として紡いでくれたのでした。

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